哲学的ゾンビ 意識はどこまでいっても主観でしかない
「哲学的ゾンビ」とはオーストラリアの哲学者、デイビット・チャーマーズが提唱した哲学における思考実験である。
私たち人間は意識を持ち、嬉しい、悲しい、楽しい、腹立たしい、不快、気持ち良いといった感情を日々体感している。つまり意識、いわゆるクオリアを持った生き物である。
しかし、このクオリアは物理学的には奇異であり、解明がされていない。
何故ならば、物理学では原子や分子間の働きを物理法則によって解き明かし、世界の事象の説明をする。
その物理法則により物理的、化学的、電気的な反応としての脳内のニューロンであったり神経系の働きを解明したり、説明したりはできるかもしれない。
しかし、その神経系の動きの結果生じる意識=クオリアが何故起こるかについては説明が出来ない。物理法則の範疇外にあるものだからである。
ある物理学者からの説明として、そういったクオリアというものは脳内の神経活動の結果付随的に起こる現象である、という付随現象説がされることがある。
しかし、その場合は何故そう言った意味のない付随現象がそもそも起こるのかという疑問が生じる。
付随現象に過ぎないはずのクオリアはかなり複雑で精妙な精神活動であり、物理学を超越した膨大な範疇の神秘ともいえる未知を認める結果ともなる。
哲学的ゾンビの思考実験とは、物理的、化学的、電気的に体や脳の構造が我々通常の人間と全く同一であるが、唯一嬉しい、悲しい、快不快などのクオリア=体感、意識を一切持たない人間を想定できるという思考実験である。
それらの哲学的ゾンビ人間は、身体や脳の物理化学的反応により、クオリアを有する人間と同様に泣き笑い、人間的な挙動を行うため、全くクオリアを持つ人間との見分けがつかない。
哲学的ゾンビが問い掛けている問題の重要な一つとして、クオリアというものが完全に主観的であり、客観化が不可能ということである。
どういうことかというと、嬉しいや楽しいや悲しいといった感情は自分自身では体感できるから、自分がクオリアを感じているから自分自身はクオリアを有する存在だと実感は出来る。
しかし、これを他者に当てはめようとすると困難だ。
いかに親しい友人や家族等でも彼ら、彼女らが実は哲学的ゾンビで、ただ単に神経系の相互作用で機械的に反応しているだけで、クオリアを感じていない可能性は否定できないからである。
他人の脳に電極を付けて、その電気作用によりクオリアが発生していることを観測しようとしても、観測できるのは単に物理的、化学的な相互作用のみで他人のクオリアが観測できることは有り得ないからである。
仮に、その脳内の神経系の電気的相互作用の結果に基づいた体験映像を映し出すことのできる機器が発明されたとしよう。
その場合でも、その映像を観測し、そのクオリアを感得しているのはどこまでいっても自分自身に他ならず、その映像を被験者が実際にクオリアにより、感じている証拠にはならないからである。
現在ITやAIの技術の進展スピードは目覚ましく、将来的に高度な人工知能のAIが誕生し、意識=クオリアを持つようになり、人類を滅ぼそうとするという考えを持つ人も居る。
しかし仮に高度な人工知能が出来たとしても、やはりそれが意識を有しているかどうかは客観化できないので確認しようがない。
そしてそもそも科学は、客観的な観測結果やデータを基に作り上げられる学問であるため、主観でしか認知しえない意識=クオリアは原理的に捉えて解明することが出来ない。
街ですれ違う他人や、あるいは親族、友人、恋人、夫婦といった直に日常的に交流し、リアルさを感じている人間ですら、猫や犬や鳥といった動物、そして植物、石や鉄などの無機物、人工知能などありとあらゆるものと同じレベルで意識=クオリアの確認が不可能なのである。