哲学・自己啓発・ライフハック・ビジネス・資格・心理学・サブカルブログ

主に哲学、自己啓発、ライフハック、ビジネス、資格、心理学、サブカルについて自分への備忘録も兼ねて、つらつらと綴っていきます。

人間関係をうまく行かせるには、多少の図々しさが必要

大人になると友達や親友が出来にくいという悩みは多い。

 

確かに学生時代、特に幼年、少年時代はあれほど簡単に友達が出来たのに、

あるいは大人とでも仲良くなれたのに、大人になると表面的な仕事上のつながりの関係だけとか、あるいは仲良くなっても顔見知り程度で終わってしまうという話はよくあることだ。

 

大人になって友達が出来にくい理由は、分別が出来てしまい、必要以上に気を遣ってしまうようになるからだろう。

気を遣ってしまい、こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、こんなくだらないことは言うべきではないんだろうか、と考え始めると、なかなかうまく相手と会話が弾まないし、よそよそしくなってお互いに窮屈さや退屈さ、息苦しさを感じてくる。

その結果、疎遠になってしまうのだ。

 

逆に子供は相手に気を遣うということはほとんど無い。

どんなに馬鹿馬鹿しいと思えることでも遠慮なく発言するし、ふざけるし、馬鹿なこともする。図々しく相手と距離を詰める。

これは相手に対して壁を作らないで、気軽に接することになるので、

人間関係でも気安く付き合えて、窮屈さもよそよそしさも感じないからその気楽さに居心地がよく、関係性はいつまでも続くのだ。

 

勿論、あまりにも自己中心的な言動をする人は嫌われるし、人間関係の構築も出来ないだろうけど、適度に冗談を言ったり、馬鹿を言ったりしてみる、あるいは多少の図々しさを言動や態度に表すと、そのことが潤滑油となり、相手との付き合いが深まるかもしれない。

大人になった今こそ、子供時代の子供らの言動に友達になるヒントを見出し、積極的に活用すべきなのかもしれない。

 

江戸時代中ごろ、松平定信の改革は「寛政の改革」と呼ばれ、

その厳しい風紀を正すような改革は、賄賂が横行していた田沼時代の政治状況をクリーンにはした。

しかし、「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われたように真面目過ぎる、潔白過ぎる物事に人は窮屈さ、居心地の悪さを感じてしまうのだ。

 

このことは恋愛でも生かせると思う。

例えば意中の異性が居たとして、仮にデートに誘うことに成功したとしても、相手が高嶺の花過ぎて、「何とか嫌われまい。」と焦って緊張してしまい、無難なことしか言えずに、退屈させてしまう、あるいは窮屈さを感じさせてしまうというのはよくある状況だ。

こんな時は逆に、冗談や軽口、馬鹿なことを言ったりした方が、相手は気楽さ、居心地の良さを感じて、却って上手くいくかもしれない。

 

 

 

 

 

会社員や受験生にとってベストな昼食はうどん、パスタ、そば

会社員や受験生にとって

昼食は作業のつかの間の休憩であり、楽しみであり、

午後へ向けてのエネルギーの補充という重要な役割を担っている。

 

昼食後、昼休みあけは、頭がぼんやりしてなかなか仕事なり勉強なりが

捗らない、と感じることも多いだろう。

 

昼食はエネルギー補充のために欠かせないが、

食べた後は胃に消化活動への血液がとられてしまい、脳への血流が下がるからである。

かといって、食べないことには脳の活動の栄養分を補給することはできない。

ずっと空腹だと却って集中力も途切れてしまうだろう。

 

そういう意味では、サラリーマン、受験生にとって

ベストな昼食はうどんやそばやパスタなどのいわゆる麺類だと考える。

 

うどんやそば、パスタは全て炭水化物であり、炭水化物は脳の働きのエネルギー分として欠かせない上に、ご飯等よりもはやくに胃で消化してくれるので、午後からの脳の働きもそれほど落ちない。

さっと休憩後に仕事や勉強に取り組めるだろう。

生卵を入れた月見うどんや、てんぷらを入れた天ぷらそばという組み合わせも良い。

 

多くの人は、たかが食事だろうとあまりそこまで気を遣うことないように思われる。

しかし皆が気を使わないからこそ、少しばかり気を遣えばライバルに累積で大きく差をつけることが出来るのである。

 

 

会社の昼休みのご飯に、カツ丼、カレーはかなり悪手

会社員の昼休憩、お腹はぺこぺこだ。

さあ午後からの仕事へのエネルギー補充のために、会社近くの定食屋へ足を運ぶ。

 

この時に、カツ丼やカレーを頼む人も多いだろう。場合によってはカツカレーも。

見た目のボリュームもあるし、活が入りそうな外観でもあるからだ。

 

しかし、カツ丼もカレーも胃の消化活動がかなり要求される。

カツは油一杯の衣と脂質たっぷりの豚肉、そして炭水化物のご飯という組み合わせだし、カレーもルーが重厚なので、消化するのに時間がかかってしまう。

腹持ちは確かに両者とも抜群だが、腹持ちの良さは裏を返せば胃の活動が長引くということだ。

 

誰でも経験があると思うが、食べた後は胃に消化活動のために血液がまわってしまい、脳への血流が少なくなってしまう。つまりぼーっとして頭が冴えにくくなる。

このような状態で集中して仕事や、あるいは勉学に取り組むのは難しいだろう。

 

勿論10代や20代前半の若い人間なら胃の消化も早く終わるだろうが、それ以上の年齢だときつくなってくる。

 

そういうわけで、これから仕事だ、あるいは受験だ試験だ、という直前にはかつ丼やカレーというのはあまりお勧めできない。

むしろこれらの料理は、仕事や勉強のオフの休日や、あるいはそれらが終わった時にご褒美の夕食的なニュアンスで食べたほうが良い。

 

どうしてもそういった時に食べたいときは、胃の消化への影響を加味し、カツだけ、あるいはカレーのルーだけ、という食べ方をした方が良いと思う。

そのほうがその後の頭の冴え具合も違ってくるだろう。

 

 

脳というのは本当に皮肉な振る舞いをする

例えば、新しい稽古事だったり、学習だったり、仕事だったり趣味だったり

何でもいいが、いざ行う日を決めて、その日に行おうとしてわくわくする気持ちになるとする。

 

だが実際にその日、その時間が近づくとやっぱり面倒くさくなり、「やりたくないなー、なんであんなに乗り気だったんだろうあの時は」

みたいな気持ちになることは無いだろうか?

 

そして逆にその日が来ると別のことをしたくなるのだ。

その日時に例えば英語の勉強をする予定の時は、逆に数学や理科が勉強したくなったり、その日時に新規の仕事をするつもりだったのが、逆に趣味を深掘りしたくなってみたり、未読の本を読みたくなったり。

 

そして往々にして不思議なことに、する予定だったはずのことより、その別のしたくなったことを実際にやってみると驚くほど捗ってしまうのだ。

数学や理科は普段は嫌だったのが面白いほど問題集が捗るし、未読の本も面倒だったのが、面白いようにページを捲ってすいすい読了できる。

 

これは本当に脳の皮肉なふるまいだと思う。

心理学的に勝手に分析するならば、脳は自由を常に欲している存在で、予定日というのは強制と受け取って、息苦しく苦痛を覚えてしまい、

そのために、する予定でなかったはずの自由な逆のことに魅力を感じ、意欲を生み出して進めさせるのだろうか。

 

皮肉な存在の脳の性質を知り、それを活かしたいものだ。

 

何かを続けたいときは最初だけ我慢して1週間は無理やり続ける

これからの時代スキル獲得は必須だ。

昨日まで常識だったことが、あっという間に別の常識に変わる。

AI、IT化によってこれまでとは違う尋常でないスピードで社会は変わっていっている。

それに対応するためには常に自分をアップデートしていくことが必要となるからだ。

それは例えば英会話であったり、運動の習慣だったり、料理作りだったり、プログラミングだったり、資格の勉強だったり色々するだろう。

 

しかしどんなことにせよ、ある程度継続してやらないと身につかないし、結果が出ない。思い立ってやり始めても一夜漬けでそのスキルを習得できることなどありえないのだ。有り得たとしても、すぐに忘れてしまい身にならないものとなるだろう。

 

そこでスキル獲得のためには継続が重要となってくるのだが、たいていの人は継続する前にすぐに何らかの事情で止めてしまう。

いわゆる三日坊主というやつだ。

第二外国語を学ぼうとしたが、一週間足らずでやめてしまった。朝のランニングを日課としようとしたが、3日くらいでだるくなって頓挫してしまった。どんな人にも類似の経験のあることだろう。自分にも多々ある。

ただどうしても、強く身に着けたいと要望するスキルや習慣があった場合は。

 

その場合には、無理やり一週間は継続することが有効だ。

人間の持つ最強の性質、「習慣」を利用するのだ。

人は習慣化したことについては、やらないと逆に気持ちが悪くなり、積極的にやりたい気持ちでなくともいつの間にかやろうとしてしまう。

 

この場合のポイントは、その一週間のうちに根をつめないことだ。

三日坊主になる人は、頑張り過ぎる傾向にある。

例えば仮にドイツ語のスキルを身に着けたいとしよう。

何かのドイツ語の入門書を買ってきて、一日30p目標を立てるとする。

最初の2日くらいは達成できて、3日目くらいで仮に面倒になって5pくらいしかできなかったとする。それで30p目標が達成できないからといって嫌になって止めてしまうのだ。完璧主義の悪癖だ。

5pくらいしかできない日があってもいいから、とにかく一週間は継続している。

そうするとそれが半ば習慣みたいになって、8日目にもしドイツ語を少しでもやらないと気持ちが悪い心地がするのだ。こうなったらしめたもので習慣化の第一歩をなしとげたことになる。この後も同じ要領で1週間我慢して、2週間たてば、結構強度の高い習慣になる。

 

自分自身が習慣化の威力を思い知ったのは筋トレの習慣化の過程においてである。

自分は健康、体力増加の為、またはお腹をへこますために筋トレを継続しようとして失敗し続けた過去があった。3,4日は続くのだが、それ以降面倒、あるいは苦しくなって三日坊主。それきりを数十回くらいは繰り返した。継続に失敗してきた。

やるときは回数目標を立てて、むしろ毎日その回数を上回ろうとしていた。

しかしそれがいけなかった。高すぎる目標は達成できない時にやる気をいたく削いでしまうのだ。

方向転換した。まずは1週間、回数目標に達しない時があってもいいからとにかく筋トレを継続することにした。

そして達成すると、8日目以降は筋トレをやらないと気持ち悪い気分を感じるようになった。そしてそのままもう一週間を続けると、ほぼ筋トレはやらないと気が済まない心持になる。自分の中での立派な習慣へと変わってくれたのだ。

おかげで今や腹筋が割れている。

繰り返しになるが、この手法の素晴らしいところは意志の力がほとんどいらずに頑張らなくて済むことだ。習慣化してしまうと強いてやろうとか、頑張ろうとしなくともやらないと気持ちが悪くなるので、自動的にやってしまうことが多いのだ。勿論たまには本当に気分が乗らなくてやらない時もある。しかしそれはごくまれなことになった。

 

 

 

 

完璧主義、こだわりを捨てると開ける道も多い

ブログを書く目的は人さまざまだろう。

1.面白い記事を沢山書いて、皆の共感やPVを得て、有名ブロガーになってアフィリエイトで将来的には稼ぎたい、あるいは出版して印税収入を得たい。

2.ただ日記的に利用しているだけ。目的もなく、日常を書き連ねて、日記のように利用している。

3.文章を書く練習、文字を打ち込むタイピングの練習に使っている。

などなど数え上げるとキリはない。

 

ただいずれにせよ、ブログが続くのは結構難しいと一般的にはされている。

おそらくその理由というのは、記事を書くネタが尽きるというパターンや飽きたというパターンも勿論あるだろうけど、「完璧主義」にやられてしまっている人が多いと思う。

なにかブログでモノを書いて公開する以上、皆の目にさらされることになる。

それゆえ、あまり下手なことを公開したくなく、推敲に推敲をかさねた素晴らしい記事を書き続けようとする意識が働いてしまう。

これは最もマズイパターンだ。

上手なものを公開し続けようとすると、それ自体がプレッシャーになってブログを投稿すること自体が嫌になってしまう。人間なのだからそうそう完璧で面白い記事を毎日投稿できるなんてことは有り得ないからだ。

ここは意識を変えて、完璧主義を捨て、自分でもつまらないと思う駄作を公開してしまったって、いいじゃないかと意識の方向転換をすることだ。

そうすると気楽になり、ブログ投稿をすることが嫌でなくなり、継続が見込めるようになる。

継続していけば、嫌でも文章力というのは上達していく。

下手でもたまにはかずうちゃあたるで面白いヒット投稿が出来ることもあるだろう。

それくらいの意識でちょうどいいのだ。

何にせよ、続けることが出来なければ上達はしないし、大成もしないのだ。

完璧主義にやられて、結局書かなくなるよりは下手な文章で恥をかく程度の方がよほどマシなのだ。

 

 

「我思う 故に我有り」では生温い?哲学者ヒュームの徹底した懐疑論

「我思う 故に我有り」は有名な言葉だ。

高校の倫理の教科書でも掲載されており、特徴的で簡潔であるため、多くの人が一度は聞いたことがあるフレーズだろう。

 

あらゆる存在というのは懐疑することが可能だ。

例えば目の前に机があり、本棚には本があり、上を向くと天井があり、蛍光灯がある。しかしこれらのものは実際には存在せず、単に誰かに魔術をかけられて幻を見ているのかもしれないし、実は夢かもしれない。実際は真っ暗闇で何もない世界に自分はいるのかもしれない。

荒唐無稽だが、それを否定する証拠もない。つまり「疑い得る」ことが可能だ。

しかし、そうやって疑っている自分自身がいる。つまり「自我」があるということだけは明白だ。いくら自我を疑っても、疑っていると認識している時点で自我は確かに「有る」のだから。

水槽の脳」という有名な思考実験がある。自分というのは実は水槽の中に配置された脳であり、その脳に対し電極をつないで電流を流し、あらゆる感覚が生じているに過ぎない、と仮定する実験だ。そんな状態であるということは証明できないが、否定する証拠も無い事だけは事実だ。

ただその場合でも、やはり感覚を認識している「自我」だけは確からしい。

 

よって我=自我だけが確かな存在であるとしたフレーズである。

 

しかし、その認識する自我も果たして自明なものなのだろうか、

ここでいう自我とは自分自身の同一性というニュアンスである。

つまり生まれてから今までに経験している自分が自分であるという自意識そのもである。

アイデンティティと言い換えても差し支えない。

 

そこまで懐疑を進めたのがイギリス経験論哲学者のヒュームである。

自我は確かに存在するように見える。

しかしその自我というのは果たしてそこまで自明なものなのだろうか。

自我というのは分解してみると、その時々の知覚によって生じるものである。

決して「自我」そのものが知覚から独立して生じることはない。

その時々の様々な経験からくる知覚体験により自我の感覚が構成されていく。

とすれば、真の実体というのはその時々の知覚経験でしかなく、

統合された自我という観念は幻想でしかないというのである。

自我というのは「知覚の束」に過ぎないと結論付ける。

 

自我の同一性を否定し、その時々の知覚体験のみが真であると思考するのは

非常に怖いことのように思える。自分が自分であるというアイデンティティーが

崩壊してしまうおそれのある思想だからだ。

非常にドラスティックな哲学思想であるといえる。

まさに懐疑哲学の極致である。