「我思う 故に我有り」では生温い?哲学者ヒュームの徹底した懐疑論
「我思う 故に我有り」は有名な言葉だ。
高校の倫理の教科書でも掲載されており、特徴的で簡潔であるため、多くの人が一度は聞いたことがあるフレーズだろう。
あらゆる存在というのは懐疑することが可能だ。
例えば目の前に机があり、本棚には本があり、上を向くと天井があり、蛍光灯がある。しかしこれらのものは実際には存在せず、単に誰かに魔術をかけられて幻を見ているのかもしれないし、実は夢かもしれない。実際は真っ暗闇で何もない世界に自分はいるのかもしれない。
荒唐無稽だが、それを否定する証拠もない。つまり「疑い得る」ことが可能だ。
しかし、そうやって疑っている自分自身がいる。つまり「自我」があるということだけは明白だ。いくら自我を疑っても、疑っていると認識している時点で自我は確かに「有る」のだから。
「水槽の脳」という有名な思考実験がある。自分というのは実は水槽の中に配置された脳であり、その脳に対し電極をつないで電流を流し、あらゆる感覚が生じているに過ぎない、と仮定する実験だ。そんな状態であるということは証明できないが、否定する証拠も無い事だけは事実だ。
ただその場合でも、やはり感覚を認識している「自我」だけは確からしい。
よって我=自我だけが確かな存在であるとしたフレーズである。
しかし、その認識する自我も果たして自明なものなのだろうか、
ここでいう自我とは自分自身の同一性というニュアンスである。
つまり生まれてから今までに経験している自分が自分であるという自意識そのもである。
アイデンティティと言い換えても差し支えない。
そこまで懐疑を進めたのがイギリス経験論哲学者のヒュームである。
自我は確かに存在するように見える。
しかしその自我というのは果たしてそこまで自明なものなのだろうか。
自我というのは分解してみると、その時々の知覚によって生じるものである。
決して「自我」そのものが知覚から独立して生じることはない。
その時々の様々な経験からくる知覚体験により自我の感覚が構成されていく。
とすれば、真の実体というのはその時々の知覚経験でしかなく、
統合された自我という観念は幻想でしかないというのである。
自我というのは「知覚の束」に過ぎないと結論付ける。
自我の同一性を否定し、その時々の知覚体験のみが真であると思考するのは
非常に怖いことのように思える。自分が自分であるというアイデンティティーが
崩壊してしまうおそれのある思想だからだ。
非常にドラスティックな哲学思想であるといえる。
まさに懐疑哲学の極致である。