人間関係をうまく行かせるには、多少の図々しさが必要
大人になると友達や親友が出来にくいという悩みは多い。
確かに学生時代、特に幼年、少年時代はあれほど簡単に友達が出来たのに、
あるいは大人とでも仲良くなれたのに、大人になると表面的な仕事上のつながりの関係だけとか、あるいは仲良くなっても顔見知り程度で終わってしまうという話はよくあることだ。
大人になって友達が出来にくい理由は、分別が出来てしまい、必要以上に気を遣ってしまうようになるからだろう。
気を遣ってしまい、こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、こんなくだらないことは言うべきではないんだろうか、と考え始めると、なかなかうまく相手と会話が弾まないし、よそよそしくなってお互いに窮屈さや退屈さ、息苦しさを感じてくる。
その結果、疎遠になってしまうのだ。
逆に子供は相手に気を遣うということはほとんど無い。
どんなに馬鹿馬鹿しいと思えることでも遠慮なく発言するし、ふざけるし、馬鹿なこともする。図々しく相手と距離を詰める。
これは相手に対して壁を作らないで、気軽に接することになるので、
人間関係でも気安く付き合えて、窮屈さもよそよそしさも感じないからその気楽さに居心地がよく、関係性はいつまでも続くのだ。
勿論、あまりにも自己中心的な言動をする人は嫌われるし、人間関係の構築も出来ないだろうけど、適度に冗談を言ったり、馬鹿を言ったりしてみる、あるいは多少の図々しさを言動や態度に表すと、そのことが潤滑油となり、相手との付き合いが深まるかもしれない。
大人になった今こそ、子供時代の子供らの言動に友達になるヒントを見出し、積極的に活用すべきなのかもしれない。
その厳しい風紀を正すような改革は、賄賂が横行していた田沼時代の政治状況をクリーンにはした。
しかし、「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われたように真面目過ぎる、潔白過ぎる物事に人は窮屈さ、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
このことは恋愛でも生かせると思う。
例えば意中の異性が居たとして、仮にデートに誘うことに成功したとしても、相手が高嶺の花過ぎて、「何とか嫌われまい。」と焦って緊張してしまい、無難なことしか言えずに、退屈させてしまう、あるいは窮屈さを感じさせてしまうというのはよくある状況だ。
こんな時は逆に、冗談や軽口、馬鹿なことを言ったりした方が、相手は気楽さ、居心地の良さを感じて、却って上手くいくかもしれない。