哲学・自己啓発・ライフハック・ビジネス・資格・心理学・サブカルブログ

主に哲学、自己啓発、ライフハック、ビジネス、資格、心理学、サブカルについて自分への備忘録も兼ねて、つらつらと綴っていきます。

何かを続けたいときは最初だけ我慢して1週間は無理やり続ける

これからの時代スキル獲得は必須だ。

昨日まで常識だったことが、あっという間に別の常識に変わる。

AI、IT化によってこれまでとは違う尋常でないスピードで社会は変わっていっている。

それに対応するためには常に自分をアップデートしていくことが必要となるからだ。

それは例えば英会話であったり、運動の習慣だったり、料理作りだったり、プログラミングだったり、資格の勉強だったり色々するだろう。

 

しかしどんなことにせよ、ある程度継続してやらないと身につかないし、結果が出ない。思い立ってやり始めても一夜漬けでそのスキルを習得できることなどありえないのだ。有り得たとしても、すぐに忘れてしまい身にならないものとなるだろう。

 

そこでスキル獲得のためには継続が重要となってくるのだが、たいていの人は継続する前にすぐに何らかの事情で止めてしまう。

いわゆる三日坊主というやつだ。

第二外国語を学ぼうとしたが、一週間足らずでやめてしまった。朝のランニングを日課としようとしたが、3日くらいでだるくなって頓挫してしまった。どんな人にも類似の経験のあることだろう。自分にも多々ある。

ただどうしても、強く身に着けたいと要望するスキルや習慣があった場合は。

 

その場合には、無理やり一週間は継続することが有効だ。

人間の持つ最強の性質、「習慣」を利用するのだ。

人は習慣化したことについては、やらないと逆に気持ちが悪くなり、積極的にやりたい気持ちでなくともいつの間にかやろうとしてしまう。

 

この場合のポイントは、その一週間のうちに根をつめないことだ。

三日坊主になる人は、頑張り過ぎる傾向にある。

例えば仮にドイツ語のスキルを身に着けたいとしよう。

何かのドイツ語の入門書を買ってきて、一日30p目標を立てるとする。

最初の2日くらいは達成できて、3日目くらいで仮に面倒になって5pくらいしかできなかったとする。それで30p目標が達成できないからといって嫌になって止めてしまうのだ。完璧主義の悪癖だ。

5pくらいしかできない日があってもいいから、とにかく一週間は継続している。

そうするとそれが半ば習慣みたいになって、8日目にもしドイツ語を少しでもやらないと気持ちが悪い心地がするのだ。こうなったらしめたもので習慣化の第一歩をなしとげたことになる。この後も同じ要領で1週間我慢して、2週間たてば、結構強度の高い習慣になる。

 

自分自身が習慣化の威力を思い知ったのは筋トレの習慣化の過程においてである。

自分は健康、体力増加の為、またはお腹をへこますために筋トレを継続しようとして失敗し続けた過去があった。3,4日は続くのだが、それ以降面倒、あるいは苦しくなって三日坊主。それきりを数十回くらいは繰り返した。継続に失敗してきた。

やるときは回数目標を立てて、むしろ毎日その回数を上回ろうとしていた。

しかしそれがいけなかった。高すぎる目標は達成できない時にやる気をいたく削いでしまうのだ。

方向転換した。まずは1週間、回数目標に達しない時があってもいいからとにかく筋トレを継続することにした。

そして達成すると、8日目以降は筋トレをやらないと気持ち悪い気分を感じるようになった。そしてそのままもう一週間を続けると、ほぼ筋トレはやらないと気が済まない心持になる。自分の中での立派な習慣へと変わってくれたのだ。

おかげで今や腹筋が割れている。

繰り返しになるが、この手法の素晴らしいところは意志の力がほとんどいらずに頑張らなくて済むことだ。習慣化してしまうと強いてやろうとか、頑張ろうとしなくともやらないと気持ちが悪くなるので、自動的にやってしまうことが多いのだ。勿論たまには本当に気分が乗らなくてやらない時もある。しかしそれはごくまれなことになった。

 

 

 

 

完璧主義、こだわりを捨てると開ける道も多い

ブログを書く目的は人さまざまだろう。

1.面白い記事を沢山書いて、皆の共感やPVを得て、有名ブロガーになってアフィリエイトで将来的には稼ぎたい、あるいは出版して印税収入を得たい。

2.ただ日記的に利用しているだけ。目的もなく、日常を書き連ねて、日記のように利用している。

3.文章を書く練習、文字を打ち込むタイピングの練習に使っている。

などなど数え上げるとキリはない。

 

ただいずれにせよ、ブログが続くのは結構難しいと一般的にはされている。

おそらくその理由というのは、記事を書くネタが尽きるというパターンや飽きたというパターンも勿論あるだろうけど、「完璧主義」にやられてしまっている人が多いと思う。

なにかブログでモノを書いて公開する以上、皆の目にさらされることになる。

それゆえ、あまり下手なことを公開したくなく、推敲に推敲をかさねた素晴らしい記事を書き続けようとする意識が働いてしまう。

これは最もマズイパターンだ。

上手なものを公開し続けようとすると、それ自体がプレッシャーになってブログを投稿すること自体が嫌になってしまう。人間なのだからそうそう完璧で面白い記事を毎日投稿できるなんてことは有り得ないからだ。

ここは意識を変えて、完璧主義を捨て、自分でもつまらないと思う駄作を公開してしまったって、いいじゃないかと意識の方向転換をすることだ。

そうすると気楽になり、ブログ投稿をすることが嫌でなくなり、継続が見込めるようになる。

継続していけば、嫌でも文章力というのは上達していく。

下手でもたまにはかずうちゃあたるで面白いヒット投稿が出来ることもあるだろう。

それくらいの意識でちょうどいいのだ。

何にせよ、続けることが出来なければ上達はしないし、大成もしないのだ。

完璧主義にやられて、結局書かなくなるよりは下手な文章で恥をかく程度の方がよほどマシなのだ。

 

 

「我思う 故に我有り」では生温い?哲学者ヒュームの徹底した懐疑論

「我思う 故に我有り」は有名な言葉だ。

高校の倫理の教科書でも掲載されており、特徴的で簡潔であるため、多くの人が一度は聞いたことがあるフレーズだろう。

 

あらゆる存在というのは懐疑することが可能だ。

例えば目の前に机があり、本棚には本があり、上を向くと天井があり、蛍光灯がある。しかしこれらのものは実際には存在せず、単に誰かに魔術をかけられて幻を見ているのかもしれないし、実は夢かもしれない。実際は真っ暗闇で何もない世界に自分はいるのかもしれない。

荒唐無稽だが、それを否定する証拠もない。つまり「疑い得る」ことが可能だ。

しかし、そうやって疑っている自分自身がいる。つまり「自我」があるということだけは明白だ。いくら自我を疑っても、疑っていると認識している時点で自我は確かに「有る」のだから。

水槽の脳」という有名な思考実験がある。自分というのは実は水槽の中に配置された脳であり、その脳に対し電極をつないで電流を流し、あらゆる感覚が生じているに過ぎない、と仮定する実験だ。そんな状態であるということは証明できないが、否定する証拠も無い事だけは事実だ。

ただその場合でも、やはり感覚を認識している「自我」だけは確からしい。

 

よって我=自我だけが確かな存在であるとしたフレーズである。

 

しかし、その認識する自我も果たして自明なものなのだろうか、

ここでいう自我とは自分自身の同一性というニュアンスである。

つまり生まれてから今までに経験している自分が自分であるという自意識そのもである。

アイデンティティと言い換えても差し支えない。

 

そこまで懐疑を進めたのがイギリス経験論哲学者のヒュームである。

自我は確かに存在するように見える。

しかしその自我というのは果たしてそこまで自明なものなのだろうか。

自我というのは分解してみると、その時々の知覚によって生じるものである。

決して「自我」そのものが知覚から独立して生じることはない。

その時々の様々な経験からくる知覚体験により自我の感覚が構成されていく。

とすれば、真の実体というのはその時々の知覚経験でしかなく、

統合された自我という観念は幻想でしかないというのである。

自我というのは「知覚の束」に過ぎないと結論付ける。

 

自我の同一性を否定し、その時々の知覚体験のみが真であると思考するのは

非常に怖いことのように思える。自分が自分であるというアイデンティティーが

崩壊してしまうおそれのある思想だからだ。

非常にドラスティックな哲学思想であるといえる。

まさに懐疑哲学の極致である。

 

哲学者ジョージ・バークリーの凄さ

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<a href="https://pixabay.com/ja/users/kellepics-4893063/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2925250">Stefan Keller</a>による<a href="https://pixabay.com/ja/?utm_source=link-attribution&utm_medium=referral&utm_campaign=image&utm_content=2925250">Pixabay</a>からの画像

ジョージ・バークリーはとにかく凄い哲学者だ。

彼の代表作の本は「人知原理論」。

 

彼の思想を端的に表しているのが「存在するとは知覚されるということである。

という標語である。

存在するとは知覚されること、ということは裏を返せばあるものが知覚されていない間は存在していないのと同じ、ということである。

 

例えばある夜にベランダに出て、満月を優雅に眺めているとしよう。

その満月はあなたが見て「知覚」している間だけ存在しており、もし月があなたに見られていない間はそもそも月自体が「存在していない」ということである。

 

そんな馬鹿な、と常識では思うだろう。自分が月を見ていようがいまいが、月は見られていない間も確実に存在しているはずだ、「見られている」間のみ月が存在するのは奇妙な話だ。じゃあ月は見られていない間は「消える」のか、と思うかもしれない。

 

バークリーはその通り、消えるのだ、と断言する。

 

少し振り返って考えてみよう。

 

私たちは果たして誰にも見られていない状態の「月」という存在を観念しうるだろうか。我々が「月」を見たり、あるいは見ないときに頭の中で想像したり、夢の中で目撃したりするとき、知覚等の人間の神経の感覚を通じてイメージを得ている。

 

「純粋」に人間の知覚を通さないで存在している「月」という存在は有り得ないのだ。

我々が「人間」である以上、知覚等を一切介さない「純粋存在」の月のイメージを得ることができない。

だからこそ「月」という存在は見られていない間は文字通り「消えて」しまい、

人に見られている間のみ存在していることになる。

 

この思想を敷衍し、突き詰めればすべての存在というのは、人間の知覚等の「観念」のみに存在し、実存在は一切存在しないことになる。何故なら実存在などという純粋存在を想定するには知覚等の感覚なしでイメージを得なければならないという100%不可能な芸当を成し遂げなければならないからだ。

 

ではそのような人間の知覚等の観念はどこから与えられているのか、ここはバークリーは聖職者らしくそれこそが「神」だと回答する。

 

常識的に考えていると、とうてい想定もしえないような思想に行きつき、なおかつ理論的にはどう考えてもそのような結論に達せざるを得ない思想にいきついたジョージ・バークリーの思考の深さや慧眼には、ただただ唖然とするほかない。そのうえ、その思想は聖職者としてのジョージ・バークリーにとり、神を信奉するのにも非常に相性が良いのだ。