哲学者ジョージ・バークリーの凄さ
ジョージ・バークリーはとにかく凄い哲学者だ。
彼の代表作の本は「人知原理論」。
彼の思想を端的に表しているのが「存在するとは知覚されるということである。」
という標語である。
存在するとは知覚されること、ということは裏を返せばあるものが知覚されていない間は存在していないのと同じ、ということである。
例えばある夜にベランダに出て、満月を優雅に眺めているとしよう。
その満月はあなたが見て「知覚」している間だけ存在しており、もし月があなたに見られていない間はそもそも月自体が「存在していない」ということである。
そんな馬鹿な、と常識では思うだろう。自分が月を見ていようがいまいが、月は見られていない間も確実に存在しているはずだ、「見られている」間のみ月が存在するのは奇妙な話だ。じゃあ月は見られていない間は「消える」のか、と思うかもしれない。
バークリーはその通り、消えるのだ、と断言する。
少し振り返って考えてみよう。
私たちは果たして誰にも見られていない状態の「月」という存在を観念しうるだろうか。我々が「月」を見たり、あるいは見ないときに頭の中で想像したり、夢の中で目撃したりするとき、知覚等の人間の神経の感覚を通じてイメージを得ている。
「純粋」に人間の知覚を通さないで存在している「月」という存在は有り得ないのだ。
我々が「人間」である以上、知覚等を一切介さない「純粋存在」の月のイメージを得ることができない。
だからこそ「月」という存在は見られていない間は文字通り「消えて」しまい、
人に見られている間のみ存在していることになる。
この思想を敷衍し、突き詰めればすべての存在というのは、人間の知覚等の「観念」のみに存在し、実存在は一切存在しないことになる。何故なら実存在などという純粋存在を想定するには知覚等の感覚なしでイメージを得なければならないという100%不可能な芸当を成し遂げなければならないからだ。
ではそのような人間の知覚等の観念はどこから与えられているのか、ここはバークリーは聖職者らしくそれこそが「神」だと回答する。
常識的に考えていると、とうてい想定もしえないような思想に行きつき、なおかつ理論的にはどう考えてもそのような結論に達せざるを得ない思想にいきついたジョージ・バークリーの思考の深さや慧眼には、ただただ唖然とするほかない。そのうえ、その思想は聖職者としてのジョージ・バークリーにとり、神を信奉するのにも非常に相性が良いのだ。