ヒルベルトの無限ホテルパラドックス 奇妙な無限のホテル
ヒルベルトの無限ホテルという思考実験がある。
とあるホテルがある。
このホテルの客室がたとえば10室だったり、100室だったり、2200室であったりと数えることのできる有限の客室しかなかったとする。
この場合、ホテルに泊まることのできる客の人数はその室に対応した数の10,100,2200が限界である。それ以上の訪問客が泊まろうとしても、客室は満員であり空いていない。
しかし、ここに無限ホテルというホテルを考える。
無限ホテルは、客室が無限に存在する。
その無限ホテルの客室に無限数の客がチェックインしており、さきほどの有限ホテルと同じように客室は全て満室であるとする。
この場合でも、新たに訪問する客をホテルの客室に入れることが可能である。
ホテルの客室に番号を1,2,3・・・無限数というように振ったとする。
新たな訪問客に入ってもらうために、1番目の客室のお客さんに2番目の室に移動してもらうよう要請する。そして2番目に泊まっていた客は3番目の室に、3番目に泊まっていた客は4番目の室に、というように一個ずつ室を移動してもらうと、最初の室は空くので、客室が満員でも新たなお客さんを泊めることが可能だ。
有限のホテルの場合はそれが出来ない。たとえば10室の客室が満員であるとし、新たな訪問客が一人来た時に、室に番号を1,2,3と10番まで振り、一番目のお客さんに二番目に移動してもらうよう要請する。
二番目以降のお客さんにも同じようにである。そうすると、9番目の室のお客さんが10番目の室に移動する時に、10番目の室の人が移動するための余分な客室が無い為に、人があぶれてしまい、泊めることが出来ない。
また無限ホテルには、更に無限数の新たなお客さんをも泊めることが出来る。
無限ホテルの客室は全て満員になっているものの、室に番号を順に1,2,3・・・と振っていく。
そして、その番号をn番とし、n番目の室に泊まっている客に2n番目の室に移動してもらうよう要請する。
1番目のお客さんであれば、2番目に、100番目のお客さんであれば、200番目にといったふうである。nは無限個数あり、2nも無限個数あるために、移動ができ、その結果n番目の客室は空く。その空いた無限個数のn番目の室に、新たな無限数の客を泊めることが果たして可能になるのである。
有限の数の場合は、ホテルの客室が満員で空きが無ければ、それ以上お客さんを新たに泊めることはできないと直感でき、実際にも泊めることはできない。
しかし、これがホテルの客室が無限数という話となると、有限のときと違い、新たにお客さんを、それもまたも無限のお客さんをも泊めることが出来るようになるという、日常生活の直感と完全に反するパラドックスが起こることがヒルベルトの無限ホテルパラドクスの要点となる。
哲学的ゾンビ 意識はどこまでいっても主観でしかない
「哲学的ゾンビ」とはオーストラリアの哲学者、デイビット・チャーマーズが提唱した哲学における思考実験である。
私たち人間は意識を持ち、嬉しい、悲しい、楽しい、腹立たしい、不快、気持ち良いといった感情を日々体感している。つまり意識、いわゆるクオリアを持った生き物である。
しかし、このクオリアは物理学的には奇異であり、解明がされていない。
何故ならば、物理学では原子や分子間の働きを物理法則によって解き明かし、世界の事象の説明をする。
その物理法則により物理的、化学的、電気的な反応としての脳内のニューロンであったり神経系の働きを解明したり、説明したりはできるかもしれない。
しかし、その神経系の動きの結果生じる意識=クオリアが何故起こるかについては説明が出来ない。物理法則の範疇外にあるものだからである。
ある物理学者からの説明として、そういったクオリアというものは脳内の神経活動の結果付随的に起こる現象である、という付随現象説がされることがある。
しかし、その場合は何故そう言った意味のない付随現象がそもそも起こるのかという疑問が生じる。
付随現象に過ぎないはずのクオリアはかなり複雑で精妙な精神活動であり、物理学を超越した膨大な範疇の神秘ともいえる未知を認める結果ともなる。
哲学的ゾンビの思考実験とは、物理的、化学的、電気的に体や脳の構造が我々通常の人間と全く同一であるが、唯一嬉しい、悲しい、快不快などのクオリア=体感、意識を一切持たない人間を想定できるという思考実験である。
それらの哲学的ゾンビ人間は、身体や脳の物理化学的反応により、クオリアを有する人間と同様に泣き笑い、人間的な挙動を行うため、全くクオリアを持つ人間との見分けがつかない。
哲学的ゾンビが問い掛けている問題の重要な一つとして、クオリアというものが完全に主観的であり、客観化が不可能ということである。
どういうことかというと、嬉しいや楽しいや悲しいといった感情は自分自身では体感できるから、自分がクオリアを感じているから自分自身はクオリアを有する存在だと実感は出来る。
しかし、これを他者に当てはめようとすると困難だ。
いかに親しい友人や家族等でも彼ら、彼女らが実は哲学的ゾンビで、ただ単に神経系の相互作用で機械的に反応しているだけで、クオリアを感じていない可能性は否定できないからである。
他人の脳に電極を付けて、その電気作用によりクオリアが発生していることを観測しようとしても、観測できるのは単に物理的、化学的な相互作用のみで他人のクオリアが観測できることは有り得ないからである。
仮に、その脳内の神経系の電気的相互作用の結果に基づいた体験映像を映し出すことのできる機器が発明されたとしよう。
その場合でも、その映像を観測し、そのクオリアを感得しているのはどこまでいっても自分自身に他ならず、その映像を被験者が実際にクオリアにより、感じている証拠にはならないからである。
現在ITやAIの技術の進展スピードは目覚ましく、将来的に高度な人工知能のAIが誕生し、意識=クオリアを持つようになり、人類を滅ぼそうとするという考えを持つ人も居る。
しかし仮に高度な人工知能が出来たとしても、やはりそれが意識を有しているかどうかは客観化できないので確認しようがない。
そしてそもそも科学は、客観的な観測結果やデータを基に作り上げられる学問であるため、主観でしか認知しえない意識=クオリアは原理的に捉えて解明することが出来ない。
街ですれ違う他人や、あるいは親族、友人、恋人、夫婦といった直に日常的に交流し、リアルさを感じている人間ですら、猫や犬や鳥といった動物、そして植物、石や鉄などの無機物、人工知能などありとあらゆるものと同じレベルで意識=クオリアの確認が不可能なのである。
ゼノンのパラドックス アキレスは亀に永久に追いつけない
ゼノンのパラドクスという哲学的な思考実験がある。
その中で、アリストテレスが指摘した、アキレスと亀の競争の矛盾の論議がある。
アキレスと亀が徒競走をしようとしたとする。
亀は遅いのでハンディをもらい、アキレスよりも先の位置からスタートさせてもらう条件で競争した。
勿論アキレスは亀より何倍も足が速いので、常識的に考えればすぐにアキレスは亀に追いつき、そして追い越して勝つだろう。
しかし、競争が始まりアキレスが亀がハンディをもらった位置まですぐに着いたとする、その時点で亀は少しだが先に進んでいる。
そのアキレスと亀の離れた距離空間は無限の分割が可能である。つまり亀に追いつくまでには対応する無限の地点を通過しなければならない。そして無限の地点を通過するには無限の時間が掛かるため、永遠にアキレスは亀に追いつくことが出来ない、と思考する議論である。
今までの現実の経験や見識、あるいは直感で考えればアキレスは亀に一瞬で追いつき、追い越すはずである。しかし哲学的、論理的に考えれば確かに空間というものは無限に分割が出来る。そして無限地点を通過するには永久の時間が掛かることも頭では理解できる。
このような矛盾が生じてしまうという議論である。
この矛盾は、そもそも空間が実在するという前提条件に問題があるから生じているとアリストテレスは述べた。
空間というものは、人の観念を離れてそれ自体で外部に実在していると仮定すれば、このような無限分割の矛盾が生じてしまうのでおかしくなるというものだ。
それに対し、空間というものは実際に実在はせず、人の観念やイメージにのみ存在する、と仮定すれば無限分割の矛盾を回避することが出来る。
前者が哲学的には「実在論」、後者が哲学的には「観念論」と呼ばれる立場となる。
このアキレスと亀のパラドクスの思考実験を通じ、アリストテレスは実在論には矛盾があり、その結果観念論が正しいのではないか、と問題提起を行っているのである。
今までの人生経験や日常生活では空間や物質というのはリアルな体験により実感しており、自明なものに見える。
つまり直感的には空間は実在すると考える実在論の立場が常識的な考えに即しているように思える。
しかしアキレスと亀の思考実験では、それでは無限分割による圧倒的に足が速いアキレスは鈍足の亀に永遠に追いつけないという矛盾を引き起こす、とその綻びを鋭く指摘した。
プロスペクト理論 人はなるべく損失を避け、利益は確実に得ようとする
プロスペクト理論という行動経済学の理論がある。カーネマンとトベルスキーによって考案された理論であり、人はなるべく損失を避け、利益は確実に得ようとする心理や行動性向を有する、とするものである。
例えば確実に100万円が手に入るのと、50%の確率で200万円貰え、50%の確率でお金はもらえない場合は、期待値的にはどちらの選択肢も全く同等だが、確実な100万円を選ぶ人が多い。
また、負債が100万円あったとして、確実に50万円分負債が減る選択肢と、50%の確率で負債は100万円のままで、もう50%の確率で負債がゼロになる選択肢があったとする。その場合は、どちらも期待値は同じだが、後者の負債がゼロになり得る可能性のある方を選ぶ人が多い。
要は、利益は多少少なくなっても確実に得ることを望み、損失はいかなる額であれ出したくないとする心理傾向を人は持つ。
この心理は投資では特にマイナスに働いてしまう場合が多い。
要はある株を買って、その株の値段が上がれば、もっと上がる可能性があるのに少ない上げ幅で確実に利益確定し、将来の大きい利益を逃す。
あるいは、ある株を買い、その株の値段が下がってマイナス利益になると、下げ幅が少ないうちに売ったら少ない損失で済むのに、損失を出すのを躊躇し、ずっと持ち続け結果その時よりも値段がかなり下がってしまい、いわゆる塩漬けになるといった具合である。
関連して、コンコルドの誤りという効果もある。これは欧州の航空機のコンコルドは商業的失敗だったにも関わらず、開発中止をすれば欧州の該当企業連合が投じたそれまでの莫大な金銭が無駄になってしまい、損失を確定したくない心理からお金を投入し続けてしまったという効果である。
人は何かに対して、お金や時間や労力を注ぎ込むとそれを無駄にしたくないために、結果が出ない可能性が高いにも関わらず続けてしまう傾向がある。これもプロスペクト理論の損失を避けたいという心理傾向の表れである。
日常生活であれば、ある資格試験を目指し勉強したがずっと落ち続けるも受けるのを止めて撤退するとそれまでに投入した試験勉強の時間が無駄になってしまうので止む無く可能性が低いのに受け続ける、
あるいはオンラインゲームにかなりそれまでに課金したため、そのお金が無駄になるのが惜しくてゲームしていても面白くなくなったのにプレイし続けて、結果時間を浪費してしまう等である。
プロスペクト理論やコンコルド効果は生活や人生のあらゆる局面で応用可能な汎用性の高い心理学的傾向であり、頭に留めておき、すぱっと損切りや止める決断をして損失を減らしたり、ないし確実な利益よりも少し辛抱して、将来の大きな利益を獲ることを心掛けたりしていきたいものである。
ケーペニックの大尉事件 人は外見や権威付けに弱い
”ケーペニックの大尉事件”という出来事がかつてドイツで起きた。
一介の靴職人、元詐欺師であったに過ぎない中年男性が、古着屋でいかめしい陸軍大尉の制服を購入し、それを着ることで自分を陸軍の実際の幹部に見せかけたのである。
そして街にたむろしていた陸軍の歩兵を引き連れて命令し、市庁舎に乗り込んで市長を逮捕し、マルクを奪った事件である。
街の通行人も、ドイツ陸軍の隊員も、市庁舎の市長や職員も誰もこの中年男性が偽物であることを見抜けず、信じ切ったというところに大きなポイントがある。
その信じ切ってしまった理由は、この事件を引き起こした男が重厚な陸軍大尉の制服を着ており、外見に威厳があったからである。当時ドイツは軍隊が絶大な威光を保っており、特に軍の制服姿というのは、その権威の象徴でもあった。
その権威の象徴である制服を非常に上手く利用した事件であった。
人は立派なスーツであったり、あるいは職業の制服を着ている人間に対しては、何故か信用してしまう性質を持っている。詐欺師や泥棒でも立派なスーツを着ていれば有能なビジネスマンだと勘違いするし、白衣の立派な衣装を着ていれば本物の医者であると信用してしまうだろう。また警察の制服を着ていれば、本物の警察官だと信用するに違いない。
これには、時間や労力の効率化に大きく関係している集団心理である。確かにごくまれに外見の制服を悪用して騙す人間が居るかもしれない。しかし概ね外見の制服はそのまま職業やその人の能力を今までの経験上表していたので、そのまま信じることは時間や判断労力を大きく節約し、効率化してくれる。
これは外見だけではなく、海外の有名な大学の博士課程を卒業していたり、立派な資格を持っていたり、立派な功績や賞を取った人を有能で優れた人物だと判断する時も同じである。時には立派でない時もあるが、おおむね当たるので効率が良くなる。
有名なブランド企業の商品を購入するのも、そういった企業の商品であれば安全であろうというバイアスが働くからである。
それを更に推し進めて考えると、極端に言えばこの世界の物理法則だってそうである。太陽が毎日東から西に沈んだり、万有引力の法則であったり、といったあらゆる物理事象も結局は過去の偉大な物理学者が発見した法則であったり、日常の経験則を信じているに過ぎない。
明日急に太陽が法則通りに動かずに爆発したり、万有引力の法則が働かなくなる可能性も決してゼロではない。結局は物理法則というのも今までの経験則や事象から帰納されたものにすぎず、その絶対性が保証されているわけでもないからだ。
だが、生活を送るにあたってそんな天文学的に低い確率のことまで考慮に入れていられない。その法則が働くとして日常を過ごした方が遥かに効率が良いのである。
結局は、人が外見や権威付けに弱いのは確率的思考による時間や脳の判断労力の省力化による効率の賜物なのである。
パレートの法則 重要なことは全体の2割
パレートの法則というイタリアの経済学者が考案した法則がある。
重要なことは全体の2割で、その2割で成果全体の8割が決まる、という法則である。
例えば仕事や成果物であれば、その完成の8割近くに貢献するのは全体の2割の作業や時間、あるいは売り上げであれば売上高の8割は2割の顧客ないし目玉商品で決まることを意味する。
そして、その2割の作業や顧客、商品、物事に注力すればそれが8割もの成果を産むため、効率が良く注力すべき部分だ、と教える。
これを体感的に実感するのは、締め切りに迫られたときの試験であったりプレゼンの準備であったり、納期の仕事を行うときだろう。
締め切りがまだ先の時は、時間に余裕があるため完璧の10割を目指して、あれこれ細部までやろうとする。
試験勉強であれば、重要度の低い論点やマニアックな知識、プレゼンや仕事であれば、細部のデザインや言い回し、本筋と関連はあるものの必須ではない資料を調べたり取り入れたりしようとする行為が該当する。
しかし、締め切り直前になると時間的余裕がなくなるため、強制的に重要な2割の部分に注力するようになる。
試験であれば頻出論点であったり、仕事や請負であれば最低限求められている問題提起とそれに対する解決策の提示といった具合である。
そして追い詰められてその2割の重要部分に全力投球した結果、間に合ってしまうことも多いものである。
これを平時に活かすならば、全体の出来の8割は重要な2割から生まれるとのパレートの法則を頭に留め、「もし仮に締め切り直前ならば、どの分野や作業、業務に注力するか?」と問いかけることが有効だ。
それにより、平時でもその2割に注力することで結果的に速く試験勉強や仕事、納品が完成し、時間を大いに節約することも可能となる。
細部までみっちりやろうとする10割の完璧主義は得てして挫折するし、効率も悪くなるものだ。パレートの法則を念頭に置き、8割主義で良いと割り切ることも重要である。
手書きは脳を活性化させる
今の時代はパソコンやスマートホンといった便利な情報端末があるため、文字等を手書きする機会は多くの人に取り、非常に減っていると思う。
たとえば企業の面接を受けるための履歴書作成でもパソコンのエクセルで打ち込んで印刷することが今や一般的だ。手書きでの履歴書作成機会は少なくなっている。
また何か忘れないようにメモをしておきたいときでも、パソコンやスマートホンのメモ帳で簡単にメモの備忘等が可能である。
あるいは仕事の場面でも、ワードやエクセル、メールなどパソコンへの文字の打ち込みでほぼ業務が事足りる為、紙やノートに筆記したり、メモ用紙を使って手書きで何かメモする機会は減っていると思う。
ただ手を使って直接、何か文字を筆記するという行為は意外に指の調節や力加減の精妙さを求められる。
その為その手や指の運動により、非常に脳に刺激を与え、活性化させる行為だと言われている。パソコンやスマホに文字を打ち込むよりも遥かに複雑な指の動きが求められるからだ。
よって、何かを記憶に留めたいときや学習したいときには敢えてアナログの手書きで筆記する方が、脳が活性化して頭に入りやすく覚えやすいと言える。
仕事の手順や作業を覚えたい時もしかりである。
あるいは週に2,3回は敢えてノートに手書きの日記を付けて脳の情報整理をするのも手だろう。
便利なデジタル機器のパソコンやスマホを活用しつつも、アナログの文字の手書きによる効用も忘れずに享受していきたいものである。