たかがキーボード、されどキーボード
昔は文章を書くと言えば、紙とペンだった。
しかし、紙とペンを使って文を書くという、昔ながらの作家や文筆家というのは今や殆ど居ない。
PCを使えば、簡単にキーボードから文字入力が出来て、下書き、文字削除や編集も一瞬で出来るからだ。
今の時代は物書き、ライターにとっては、紙が「パソコンのモニター」、ペンが「キーボード」といったところだろう。
ところでキーボードは殆どの人は特に気にせずに何気なく使っていると思う。
自分もノートパソコンのキーで文を自宅では打ち込んでいた。
しかし、ノートパソコンの大きさの兼ね合いなのか、備え付けキーは範囲が狭くて、文字が打ちづらく、やや指に力を入れないと反応が遅れることもあった。
そこで、スペアの役割も兼ねて、amazonで外付けの、静音有線キーボードを購入した。
いざ使ってみると、その文字の打ちやすさに驚いた。
キーボード機能に特化しているからか使い勝手は良く、大量に文を打ち込んでもほぼ指は疲れないし、入力の反応反映も即座だ。
ちょっとしたことだが、こういった使いやすさというのは重要な要素の一つだと考える。
文字が打ちにくいとなかなか文章を書くになれず、文を書く作業が滞るかもしれない。一方文字が打ちやすいと、文章入力作業に取り掛かる際の心理的障壁がぐっと下がってくれる。
何事も実際の作業を行う際の、心理的な障壁の高低は、ささいなことでも積み重なりで大きく影響してくるように思える。
取り組みやすさが大事なのだ。
例えば法律の勉強を続ける際は、六法全書を傍に置き、都度参照するために頁をめくることも多いだろう。
その際に六法全書にカバーをしていたとしたら、条文を調べる時ごとにいちいちカバーを外さないといけないので、嫌になり、勉強を止めてしまうかもしれない。
それだったら、いっそのことカバーは取り去って常に六法全書は裸のままにしておき、カバーをどこかに別で保管しておいたほうが良い。
そうすると法律の勉強の心理的障壁は少なからず下がってくれる。
ささいなことのように思えるキーボード入力についても、キーボードを変えるというちょっとした改善で、取り組みの障壁は下がり、続けやすくなる。
何かを継続して、成果を出そうと思ったら、小さなことでもなるべく心理的障壁を下げて、取り掛かりやすくなるような工夫がないかどうか再点検してみることをお勧めしたい。
「自意識」という鉄の枷から自由になる
自意識というのは非常に厄介だ。
鉄の枷のようなもので、行動を大きく制限する。
自意識が強いと、「こんなことを人に話したら変に思われるんじゃないか。」
「こんな記事をブログに投稿して叩かれたらどうしよう。」とか
「あの人に嫌われたらどうしよう。」とか「こんなファッションで外を歩いて、すれ違う人に変に思われたり笑われたらどうしよう」といつも自分の他人からの評価や評判、視線を過剰に気にしてしまうようになる。
その結果あらゆる行動や行動する意欲が委縮してしまい、人生というフィールドを狭くしてしまう可能性がある。
この自意識も大人になってから特に発達した意識であり、子供のころは人からどう思われるかなんて気にせずにおかしな行動をしたり、ギャグを大声で叫んだり、突飛で奇抜なことをしまくったりしただろう。
ふざけて注目を集めることはむしろ子供の仲間内では称賛される行為だったし、人の目なんて気にせずに自由にふるまっていただろう。
大人になると分別も出来てしまうので、自意識もやはり発達し、他人への配慮や、自制心もあいまって自意識が過剰になってしまう人も多い。
しかし実際には自分が政治家や芸能人や俳優といった皆が注目する有名人でない限り、誰も自分のことなんてそんなに気にも留めていないし、気にしていない。突飛なことをしたとしても意外に他の人は何とも思っていないものだし、仮に一時的に思ったとしても2,3日もすれば忘れているだろう。
皆自分の生活や趣味、仕事勉強、付き合いでいっぱいっぱいだし、他人のことをいちいち気にしてずっと覚えている余裕なんて無いのだ。
実際、仮に思い切って変な行動をしたとしても、意外なほど周りの反応が無くてびっくりすることのほうが多いと思う。叩かれるとか奇異に見られる以前にそもそもその前段階の反応すらないことが多いのだ。
これは行動する際の気楽さを高めてくれるだろう。誰も注目をしていないんだから変なこと思い切ってやってみてもいいと思えるようになるのだ。
確かに安倍総理やトランプ大統領、メルケル首相、あるいは浜崎あゆみや木村拓哉、ジャニーズといった政治家、有名芸能人については、その一挙手一投足まで注目され、些細な言動ですら、叩かれたり、あるいはその逆に褒められたりするだろう。
しかし政治家でも芸能人でもない一般人のことなんて誰も一挙手一投足を注目していないし、自分なんかに大層な価値なんてないのだと開き直ることである。
自分なんて本当にとるに足らず、たいした存在じゃないと思うことが出来れば、逆に開き直れて気楽な気持ちになり、色々なことに自由に挑戦出来て、自由に言ったりふるまうことが出来、人生というフィールドを大いに広げることも可能なのである。
不調の時の対処方法、メンタルの持ち方
だれしも、「ああ今日は気分が乗らないなあ。」とか
「何もやる気が起こらない。」とか「どうしようもなく鬱で死にたくなる。」みたいな
日であったり、場合によっては週であったり、月があるだろう。
それはどんなにいつも明るく周囲から元気な人だと思われている人間だって、そうである。
そのような人も一回は自殺を考えるような時もあったろうし、人間の調子はバイオリズムもあるのでなおさらである。
そういった不調で落ち込みの激しい時は何もする気が起こらず、目標等の進捗はいっこうに捗らないので、余計に焦りや不安や絶望を感じて落ち込むスパイラルに陥るかもしれない。
そんな時に重要なのは、今落ち込んでいるのはバイオリズムの落ち込みの時期のせいであって、自分のせいではないと言い聞かせること。
また「明けない夜は無い」との言葉を思い出し、単に時期がそうであって、これが永続するわけではなく、バイオリズムによって好調の折が再びやってくると固く信じ、自分に言い聞かせることである。
更に不調の時でもできる簡単なことを決めておき、それを実行することも有効であると思われる。
簡単なことでも「実行できた。」という達成感は脳の意欲を回復してくれるからだ。
人間関係をうまく行かせるには、多少の図々しさが必要
大人になると友達や親友が出来にくいという悩みは多い。
確かに学生時代、特に幼年、少年時代はあれほど簡単に友達が出来たのに、
あるいは大人とでも仲良くなれたのに、大人になると表面的な仕事上のつながりの関係だけとか、あるいは仲良くなっても顔見知り程度で終わってしまうという話はよくあることだ。
大人になって友達が出来にくい理由は、分別が出来てしまい、必要以上に気を遣ってしまうようになるからだろう。
気を遣ってしまい、こんなことを言ったら相手にどう思われるだろうか、こんなくだらないことは言うべきではないんだろうか、と考え始めると、なかなかうまく相手と会話が弾まないし、よそよそしくなってお互いに窮屈さや退屈さ、息苦しさを感じてくる。
その結果、疎遠になってしまうのだ。
逆に子供は相手に気を遣うということはほとんど無い。
どんなに馬鹿馬鹿しいと思えることでも遠慮なく発言するし、ふざけるし、馬鹿なこともする。図々しく相手と距離を詰める。
これは相手に対して壁を作らないで、気軽に接することになるので、
人間関係でも気安く付き合えて、窮屈さもよそよそしさも感じないからその気楽さに居心地がよく、関係性はいつまでも続くのだ。
勿論、あまりにも自己中心的な言動をする人は嫌われるし、人間関係の構築も出来ないだろうけど、適度に冗談を言ったり、馬鹿を言ったりしてみる、あるいは多少の図々しさを言動や態度に表すと、そのことが潤滑油となり、相手との付き合いが深まるかもしれない。
大人になった今こそ、子供時代の子供らの言動に友達になるヒントを見出し、積極的に活用すべきなのかもしれない。
その厳しい風紀を正すような改革は、賄賂が横行していた田沼時代の政治状況をクリーンにはした。
しかし、「白河の清きに魚も住みかねて、もとの濁りの田沼恋しき」と狂歌で歌われたように真面目過ぎる、潔白過ぎる物事に人は窮屈さ、居心地の悪さを感じてしまうのだ。
このことは恋愛でも生かせると思う。
例えば意中の異性が居たとして、仮にデートに誘うことに成功したとしても、相手が高嶺の花過ぎて、「何とか嫌われまい。」と焦って緊張してしまい、無難なことしか言えずに、退屈させてしまう、あるいは窮屈さを感じさせてしまうというのはよくある状況だ。
こんな時は逆に、冗談や軽口、馬鹿なことを言ったりした方が、相手は気楽さ、居心地の良さを感じて、却って上手くいくかもしれない。
会社員や受験生にとってベストな昼食はうどん、パスタ、そば
会社員や受験生にとって
昼食は作業のつかの間の休憩であり、楽しみであり、
午後へ向けてのエネルギーの補充という重要な役割を担っている。
昼食後、昼休みあけは、頭がぼんやりしてなかなか仕事なり勉強なりが
捗らない、と感じることも多いだろう。
昼食はエネルギー補充のために欠かせないが、
食べた後は胃に消化活動への血液がとられてしまい、脳への血流が下がるからである。
かといって、食べないことには脳の活動の栄養分を補給することはできない。
ずっと空腹だと却って集中力も途切れてしまうだろう。
そういう意味では、サラリーマン、受験生にとって
ベストな昼食はうどんやそばやパスタなどのいわゆる麺類だと考える。
うどんやそば、パスタは全て炭水化物であり、炭水化物は脳の働きのエネルギー分として欠かせない上に、ご飯等よりもはやくに胃で消化してくれるので、午後からの脳の働きもそれほど落ちない。
さっと休憩後に仕事や勉強に取り組めるだろう。
生卵を入れた月見うどんや、てんぷらを入れた天ぷらそばという組み合わせも良い。
多くの人は、たかが食事だろうとあまりそこまで気を遣うことないように思われる。
しかし皆が気を使わないからこそ、少しばかり気を遣えばライバルに累積で大きく差をつけることが出来るのである。
会社の昼休みのご飯に、カツ丼、カレーはかなり悪手
会社員の昼休憩、お腹はぺこぺこだ。
さあ午後からの仕事へのエネルギー補充のために、会社近くの定食屋へ足を運ぶ。
この時に、カツ丼やカレーを頼む人も多いだろう。場合によってはカツカレーも。
見た目のボリュームもあるし、活が入りそうな外観でもあるからだ。
しかし、カツ丼もカレーも胃の消化活動がかなり要求される。
カツは油一杯の衣と脂質たっぷりの豚肉、そして炭水化物のご飯という組み合わせだし、カレーもルーが重厚なので、消化するのに時間がかかってしまう。
腹持ちは確かに両者とも抜群だが、腹持ちの良さは裏を返せば胃の活動が長引くということだ。
誰でも経験があると思うが、食べた後は胃に消化活動のために血液がまわってしまい、脳への血流が少なくなってしまう。つまりぼーっとして頭が冴えにくくなる。
このような状態で集中して仕事や、あるいは勉学に取り組むのは難しいだろう。
勿論10代や20代前半の若い人間なら胃の消化も早く終わるだろうが、それ以上の年齢だときつくなってくる。
そういうわけで、これから仕事だ、あるいは受験だ試験だ、という直前にはかつ丼やカレーというのはあまりお勧めできない。
むしろこれらの料理は、仕事や勉強のオフの休日や、あるいはそれらが終わった時にご褒美の夕食的なニュアンスで食べたほうが良い。
どうしてもそういった時に食べたいときは、胃の消化への影響を加味し、カツだけ、あるいはカレーのルーだけ、という食べ方をした方が良いと思う。
そのほうがその後の頭の冴え具合も違ってくるだろう。
脳というのは本当に皮肉な振る舞いをする
例えば、新しい稽古事だったり、学習だったり、仕事だったり趣味だったり
何でもいいが、いざ行う日を決めて、その日に行おうとしてわくわくする気持ちになるとする。
だが実際にその日、その時間が近づくとやっぱり面倒くさくなり、「やりたくないなー、なんであんなに乗り気だったんだろうあの時は」
みたいな気持ちになることは無いだろうか?
そして逆にその日が来ると別のことをしたくなるのだ。
その日時に例えば英語の勉強をする予定の時は、逆に数学や理科が勉強したくなったり、その日時に新規の仕事をするつもりだったのが、逆に趣味を深掘りしたくなってみたり、未読の本を読みたくなったり。
そして往々にして不思議なことに、する予定だったはずのことより、その別のしたくなったことを実際にやってみると驚くほど捗ってしまうのだ。
数学や理科は普段は嫌だったのが面白いほど問題集が捗るし、未読の本も面倒だったのが、面白いようにページを捲ってすいすい読了できる。
これは本当に脳の皮肉なふるまいだと思う。
心理学的に勝手に分析するならば、脳は自由を常に欲している存在で、予定日というのは強制と受け取って、息苦しく苦痛を覚えてしまい、
そのために、する予定でなかったはずの自由な逆のことに魅力を感じ、意欲を生み出して進めさせるのだろうか。
皮肉な存在の脳の性質を知り、それを活かしたいものだ。